台湾中央山脈の山あいに広がる南投県仁愛郷には、セデック族の人々が暮らす複数の集落が点在しています。むらやしは今回の調査で、廬山部落を中心に、平和部落や都達部落を訪れました。山と森に抱かれたこれらの地域には、自然と共に歩んできた歴史と文化が今も息づいています。
セデック族は「セデック・バレ(真の人)」を自称し、勇壮な狩猟文化、苧麻による織物、祖霊信仰を中心に社会を築いてきました。1930年の霧社事件は彼らの歴史に深い影を落とし、多くの人々が現在の仁愛郷に移住させられる契機となりました。日本統治期には言語・祭祀・音楽などの文化が制限され、伝統の継承は困難を極めましたが、共同体は自然と共に生きる知恵を守り続け、現代へとつなげてきました。
苧麻を用いた織布は女性にとって社会的承認を得るための重要な技術であり、織りを習得することで共同体の一員として認められました。狩猟は食料確保だけでなく、祭祀や教育の場ともなり、季節ごとに動物の捕獲や繁殖を調整することで生態系と社会秩序を同時に維持してきました。死後は虹の橋を渡るという祖霊信仰が共有され、屋内埋葬の習慣がその象徴となっています。また、鼻笛や口風器といった楽器は、狩りや交流における暗号的役割を担いましたが、日本統治期に禁止され、文化継承の断絶を経験しました。
今回の調査で最も長く滞在した廬山部落は、セデック語でセンザンコウを意味する「ボワルン(Powan)」と呼ばれてきた地で、現在は約800人が暮らしています。廬山は温泉地としても知られ、日本統治期に日本人が宿や浴場を整備したことで観光地として発展しました。鹿や鳥が湯に浸かって傷を癒やしたという伝承は、泉質の良さと自然観を象徴しています。 しかし現在、施設の老朽化や災害の影響により観光地としての役割は衰退しつつあります。こうした状況を受け、地域の人々は温泉を大量消費型の観光資源として再利用するのではなく、山や森など自然そのものを観光テーマに据える新しい方向性を模索しています。そこには、人と自然を切り離さず共に生きてきた原住民の自然観が垣間見えます。
都達部落には石積みと木材を組み合わせた復元伝統住居や、祖先を足元に眠らせる埋葬の習俗、高床式の穀倉庫など、自然と共生するための空間利用の知恵が残されています。平和部落では日本統治期に導入された木造平屋も混在し、外来文化との融合が景観の層をつくっています。
都達部落には石積みと木材を組み合わせた復元伝統住居や、祖先を足元に眠らせる埋葬の習俗、高床式の穀倉庫など、自然と共生するための空間利用の知恵が残されています。平和部落では日本統治期に導入された木造平屋も混在し、外来文化との融合が景観の層をつくっています。
こうした文化的基盤は廬山・平和・都達の各集落に共通して見られる一方で、それぞれに異なる特色もあります。廬山は温泉観光地としての顔をもち、外部からの影響を受けやすい立地にあります。平和は比較的内陸に位置し、農業や伝統儀礼の継承が生活の中心に残されています。都達は地形の傾斜を活かした住居配置が特徴的で、集落景観に自然環境との調和が色濃く表れています。これらの違いは、セデック族の生活が単一ではなく、多様な地域的条件と歴史的背景のもとに展開されてきたことを示しています。
現代における生業は、茶や高地野菜の栽培、猪やモモンガなどの狩猟が中心ですが、若者の就業機会は限られており、都市部への流出が進んでいます。この課題に対して、地域団体TAPUNGによる市場づくりや文化産業化の試みは、伝統の継承と新たな生業創出を両立させる動きとして注目されています。市場と地域空間を結びつける取り組みは、観光と文化、経済と生活を結ぶ新しい可能性を切り拓こうとしています。
今回の調査を通じて見えてきたのは、セデック族の集落がもつ重層的な姿でした。伝統文化と外部からの影響が複雑に交錯する生活空間、地域ごとに異なる文化的実践と景観、そして次世代へと受け継ぐための模索。そのすべてが、むらやしにとって「空間づくり」と「地域協働」の方向性を考える上での貴重な手がかりとなりました。
廬山部落
都達部落
平和部落